GRAND STAGE

GRAND STAGE

作りあげたものをぶっ飛ばすほどの情熱と

価値観にとらわれない勇気ある一歩。

GRAND STAGEに挑み続けるトップランナーたち。

ジャンルを飛び越え、APIAはその魂を応援します。

Taisuke

PART 1Taisuke

8歳からブレイクダンスをはじめ世界を舞台に活躍。
数々の大会で優勝や記憶に残るバトルを積み重ね、世界で15人しかいないRed Bull BC One ALL Starsの初期メンバー7人にも選出。世界のブレイクダンスシーンで大きな影響力を持つ存在に。
幼少から釣りもたしなみ、ライトゲームを好むAPIAユーザーでもある。

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03磯遊びで育った少年、ブレイクダンスと出会う

7歳の頃から姉についていってダンスサークルで踊りを学ぶようになっていたTAISUKE。踊っていたのも当時流行していた「歌って踊れる芸能人」を目指すようなノリのヒップホップダンスで、メンバーも女の子ばかり。「男は1人だからお前も来いよ」と従兄弟のToshikiをさそって一緒に踊るようになった8歳の頃、そこにやってきた1人の男の先生との出会いがその後のTAISUKEの歩みを大きく変えることになった。

レッスンの休憩時間に、その先生に呼ばれたんです。Marくんっていう先生なんですけど彼が「おまえら男の子だから、特別に見せてやるよ」って感じで、踊って見せてくれたのがブレイクダンスでした。それがもう本当にカッコよくて…僕も一緒にダンスを習っていた従兄弟のToshikiも一発で、「僕らもそれがやりたい!」ってなったんです。それこそ、基礎からじっくり教えてもらえましたね。ブレイクダンスの構成、流れ、トップロック(立ち踊り)のフットワークから、パワームーブ(いわゆるブレイクダンスの代名詞のような技)、フリーズと言われる決めポーズ…そういう技の一つひとつを習いながらどんどん惹きこまれていきましたね。飲み込みは、早かったかもしれません。元々、親も陸上をやっていたり運動神経のいい家系ではありました。補助輪ありの自転車に乗った記憶もないくらいですから(笑)。親戚に漁師が多くて、小さい頃から磯が遊び場で釣りは物心ついた頃からやってました。岩場でバランスをとりながら走り回ってウニを獲ったりで、体幹も知らないうちに鍛えられていたんだと思います。習い始めて2,3ヵ月でもう先生たちとイベントに出て、ソロにも挑戦することになり、従兄弟と毎日、夢中で猛特訓しました。自分の初めてのソロでやった技は、スワイプス・ドリル。頭で回るヤツです。これはベーシックな技ですから、いまだにやってますよ(笑)。

7歳の頃から姉についていってダンスサークルで踊りを学ぶようになっていたTAISUKE。

踊っていたのも当時流行していた「歌って踊れる芸能人」を目指すようなノリのヒップホップダンスで、メンバーも女の子ばかり。「男は1人だからお前も来いよ」と従兄弟のToshikiをさそって一緒に踊るようになった8歳の頃、そこにやってきた1人の男の先生との出会いがその後のTAISUKEの歩みを大きく変えることになった。

レッスンの休憩時間に、その先生に呼ばれたんです。Marくんっていう先生なんですけど彼が「おまえら男の子だから、特別に見せてやるよ」って感じで、踊って見せてくれたのがブレイクダンスでした。

それがもう本当にカッコよくて…僕も一緒にダンスを習っていた従兄弟のToshikiも一発で、「僕らもそれがやりたい!」ってなったんです。それこそ、基礎からじっくり教えてもらえましたね。
ブレイクダンスの構成、流れ、トップロック(立ち踊り)のフットワークから、パワームーブ(いわゆるブレイクダンスの代名詞のような技)、フリーズと言われる決めポーズ…そういう技の一つひとつを習いながらどんどん惹きこまれていきましたね。
飲み込みは、早かったかもしれません。元々、親も陸上をやっていたり運動神経のいい家系ではありました。

補助輪ありの自転車に乗った記憶もないくらいですから(笑)。親戚に漁師が多くて、小さい頃から磯が遊び場で釣りは物心ついた頃からやってました。
岩場でバランスをとりながら走り回ってウニを獲ったりで、体幹も知らないうちに鍛えられていたんだと思います。
習い始めて2,3ヵ月でもう先生たちとイベントに出て、ソロにも挑戦することになり、従兄弟と毎日、夢中で猛特訓しました。自分の初めてのソロでやった技は、スワイプス・ドリル。頭で回るヤツです。
これはベーシックな技ですから、いまだにやってますよ(笑)。

02ブレイクダンスと世界と僕

ブレイクダンスをはじめた年に、先生と従兄弟のToshikiの3人で「Cool Crew Jr.とパパ」というチームを結成。TV番組「RAVE2001」に出場し、いきなりオーディエンス賞を受賞。その翌年には「JAPAN DANCE DELIGHT」で特別賞、そしてその翌年には準優勝。11歳になった2001年には、日本中の猛者からチームに誘われ、世界最大と言われるブレイクダンスの大会「BATTLE OF THE YEAR」に挑み日本予選で優勝し、世界大会で準優勝。早くも世界デビューを果たした。「すごい子どもがいる」とテレビからの出演オファーが殺到するようになっていた。快進撃の影でTAISUKEは悩んでいた。

まだ世間には「キッズダンス」という言葉も出ていなかった頃でしたから、フォーカスされ年間100本くらいイベントやテレビに出ていました。でも、僕の中ではだんだんイベントや番組のためにダンスを練習している感じになって、楽しくなくなってたんです。ずっと学校に行って、練習しての繰り返し。周りの友だちともあまり遊べません…ダンスから離れる口実をつくるように、中2の頃には陸上部に入りました。やっぱり部活を通じて友だちみんなで過ごすっていうのが、僕には貴重だったんでしょうね。そうしている間もイベントでダンスは踊っていましたよ。高校に入ってからは、同じような気持ちでサッカーもやりました。それでもなんだか、地元の佐世保でも煮詰まってしまって…。環境を変えたくなっていた頃に、1つのオファーがありました。「東京にダンスの高校ができるから、ゲストショーとして説明会で踊ってほしい」と。なんだか僕には、それが環境を変えてもう一度ダンスに向き合い直すチャンスに思えたんです。学校側の担当の人や既に東京に出ていたブレイクダンスを教えてくれた恩師に相談して「特待生」として2年生から編入させてもらえることになりました。母は、さみしがりましたけどね。父親は「やりたいんなら行ってこい!」と背中を押してくれました。こうして2007年、17歳の時に単身で上京。学校では、いろんなジャンルのダンスをしてる子が通っていて、いつでも練習ができて…環境はホントによかったですね。上京して数日後に、ソロの大会があると聞いていきなり出場してみたら優勝。東京に出て「もうダンスしかない!」と気持ちを切り替えられたように思います。1人で練習を始め、次第に「一緒にやらせてくれ」とお願いしていろんなチームに参加したり…たくさんの刺激を受けてダンスに対する考え方もスタイルも変わってきたんです。そんな中で2007年「Red Bull BC One(世界最高峰の1vs1で戦うブレイクダンスバトルの大会です)」の日本での予選が初めて行われました。日本中から16人の挑戦者がピックアップされたんですが、その中には従兄弟のToshikiもいて…「東京に出てスタイルも変えて進化したと思わせたい!」って意識してたのは、覚えていますね。結果、日本予選で優勝。「これでよかったんだ!もっと変わりたい!」って強く思いました。晴れて出場した南アフリカの本選ではベスト8止まりでしたが、そこで多くの出会いがありました。たとえば11歳の頃にチームを組んで「BATTLE OF THE YEAR」で準優勝したときの僕を覚えていて「あの頃のチビがこうなって、ここに立っているんだ!」って喜んでもらえたりね。その時の様子は、世界のB-BOY6人に密着した「TURN IT LOOSE」っていうドキュメント映画にもなりました。そうやって海外との繋がりがどんどん出来ていって、KATSU1っていう二人目の先生みたいに思える人にも出会って…。僕にとっては第二の人生が始まったように思います。

ブレイクダンスをはじめた年に、先生と従兄弟のToshikiの3人で「Cool Crew Jr.とパパ」というチームを結成。

TV番組「RAVE2001」に出場し、いきなりオーディエンス賞を受賞。その翌年には「JAPAN DANCE DELIGHT」で特別賞、そしてその翌年には準優勝。
11歳になった2001年には、日本中の猛者からチームに誘われ、世界最大と言われるブレイクダンスの大会「BATTLE OF THE YEAR」に挑み日本予選で優勝し、世界大会で準優勝。早くも世界デビューを果たした。
「すごい子どもがいる」とテレビからの出演オファーが殺到するようになっていた。快進撃の影でTAISUKEは悩んでいた。

まだ世間には「キッズダンス」という言葉も出ていなかった頃でしたから、フォーカスされ年間100本くらいイベントやテレビに出ていました。でも、僕の中ではだんだんイベントや番組のためにダンスを練習している感じになって、楽しくなくなってたんです。ずっと学校に行って、練習しての繰り返し。周りの友だちともあまり遊べません…ダンスから離れる口実をつくるように、中2の頃には陸上部に入りました。
やっぱり部活を通じて友だちみんなで過ごすっていうのが、僕には貴重だったんでしょうね。

そうしている間もイベントでダンスは踊っていましたよ。
高校に入ってからは、同じような気持ちでサッカーもやりました。それでもなんだか、地元の佐世保でも煮詰まってしまって…。
環境を変えたくなっていた頃に、1つのオファーがありました。「東京にダンスの高校ができるから、ゲストショーとして説明会で踊ってほしい」と。
なんだか僕には、それが環境を変えてもう一度ダンスに向き合い直すチャンスに思えたんです。

学校側の担当の人や既に東京に出ていたブレイクダンスを教えてくれた恩師に相談して「特待生」として2年生から編入させてもらえることになりました。母はさみしがりましたけどね。
父親は「やりたいんなら行ってこい!」と背中を押してくれました。
こうして2007年、17歳の時に単身で上京。学校では、いろんなジャンルのダンスをしてる子が通っていて、いつでも練習ができて…環境はホントによかったですね。上京して数日後に、ソロの大会があると聞いていきなり出場してみたら優勝。

東京に出て「もうダンスしかない!」と気持ちを切り替えられたように思います。1人で練習を始め、次第に「一緒にやらせてくれ」とお願いしていろんなチームに参加したり…たくさんの刺激を受けてダンスに対する考え方もスタイルも変わってきたんです。そんな中で2007年「Red Bull BC One(世界最高峰の1vs1で戦うブレイクダンスバトルの大会です)」の日本での予選が初めて行われました。
日本中から16人の挑戦者がピックアップされたんですが、その中には従兄弟のToshikiもいて…

「東京に出てスタイルも変えて進化したと思わせたい!」って意識してたのは、覚えていますね。結果、日本予選で優勝。「これでよかったんだ!もっと変わりたい!」って強く思いました。晴れて出場した南アフリカの本選ではベスト8止まりでしたが、そこで多くの出会いがありました。
たとえば11歳の頃にチームを組んで「BATTLE OF THE YEAR」で準優勝したときの僕を覚えていて「あの頃のチビがこうなって、ここに立っているんだ!」って喜んでもらえたりね。

その時の様子は、世界のB-BOY6人に密着した「TURN IT LOOSE」っていうドキュメント映画にもなりました。そうやって海外との繋がりがどんどん出来ていって、KATSU1っていう二人目の先生みたいに思える人にも出会って…。僕にとっては第二の人生が始まったように思います。

02スタイルを変える。バトルの文化を守る

その後、初めは世界で7名しかいない「Red Bull BC One ALL Stars」の一員にも選ばれ世界を舞台に戦うようになったTAISUKE。常にもっと進化するために挑戦を続けていた。それは、これまで結果を残してきたスタイルを捨ててでも、ブレイクダンスの本質を追求し、体現していくための戦いでもあった。

ブレイクダンスというと不良とかガラが悪いイメージもあるかもしれませんが、もとは、ギャング同士がケリをつけるのに、暴力ではなくダンスのバトルで決めようというところから始まったっていう話もあります。そういう意味で歴史を理解している人にとっては、「手を出しちゃうのは、ダサい」っていう暗黙の了解があるくらいです。平和でしょ。そんなルーツを知るほどに、ブレイクダンスは根底に「バトルの文化」があると思うんです。それなのに、自分はショーケースとしてあらかじめ決めたことを本番でも踊っていた。そんなジレンマを感じるようになったんです。「そうだ!バトルをしなアカン!」って…相手の出方を見て、その場で感じて踊るスタイルに挑みはじめたんです。それで、もうバカ正直に全くのノープラン、完全にフリースタイルで2008年の「Red Bull BC One」に挑んだ。結果は準優勝…優勝したダンサーを見ていると、さすがに1〜7くらいまでは決めているようなんですね(笑)。なんだ…とじゃあ、「ちょっとだけ創っておこうかな」とか、そこからは試行錯誤の連続でした。その後、「Red Bull BC One」には10回くらい出場したんですが、それこそ、2016年に「Red Bull BC One」の舞台を引退する迄、毎回が試行錯誤でした。1回戦負けしたり、ジャッジとして参加したり、また決勝までいって負けたり…ずっとどうすればいいか考えてきましたね。
その一方で、チームバトルでの最高峰「BATTLE OF THE YEAR」にも挑戦を続けてきました。この大会はショーケースとバトルサイドの二部構成。ショーで上位になったチームがバトルで戦うスタイルなんです。2009年には「ALL AREA」という幅広い世代の国内の実力者を集めたチームで挑んだのですが、「ベストショー」の獲得までは届いたんですが、優勝はできなかったんです。そこで今度は自分で声をかけて国内の若手の猛者を集めて「THE FLOORRIORZ」というクルーを結成。2012年から挑戦しはじめ、ようやく2015年に日本人として初優勝。帰国後にすぐさま「THE FLOORRIORZ ACADEMY」という次世代を育成するスクールもスタートさせました。2016年はアカデミーの生徒たちに僕らが世界で戦う姿を見せようという気持ちを持って挑み、連覇することができました。でもね、僕たちはちょっと満足していなかったんです…最近はチームバトルでも、ルーティーンといってチームであらかじめ作った「振り付け」を披露するカタチでバトルするのが主流になっていたんです。実際僕たちも2015年、2016年はルーティンで戦っていました。そうしないと勝ち上がれないという意識があったんです。でもそれって1vs1でやりあうブレイクダンス本来の姿ではないなあというジレンマをずっと感じていたんですよ。だからあえて三連覇をかけた2017年は、ノールーティーンでいこう、ソロの力だけでバトルしてねじ伏せるように勝ちにいくんだと、みんなで決めたんです。これで負ければ「ルーティンをやらないといけないシーン」が続くし、勝てば歴史を変えることができる。そんな気持ちで掴んだ優勝だけに、世界に何かメッセージを伝えることができたような気がするんです。おまけに自分たちで育てたアカデミーの1期生の子をメンバーに加えての優勝です。そりゃ感慨深かったですよ。

その後、初めは世界で7名しかいない「Red Bull BC One ALL Stars」の一員にも選ばれ世界を舞台に戦うようになったTAISUKE。

常にもっと進化するために挑戦を続けていた。それは、これまで結果を残してきたスタイルを捨ててでも、ブレイクダンスの本質を追求し、体現していくための戦いでもあった。

ブレイクダンスというと不良とかガラが悪いイメージもあるかもしれませんが、もとは、ギャング同士がケリをつけるのに、暴力ではなくダンスのバトルで決めようというところから始まったっていう話もあります。
そういう意味で歴史を理解している人にとっては、「手を出しちゃうのは、ダサい」っていう暗黙の了解があるくらいです。

平和でしょ。そんなルーツを知るほどに、ブレイクダンスは根底に「バトルの文化」があると思うんです。それなのに、自分はショーケースとしてあらかじめ決めたことを本番でも踊っていた。そんなジレンマを感じるようになったんです。
「そうだ!バトルをしなアカン!」って…相手の出方を見て、その場で感じて踊るスタイルに挑みはじめたんです。それで、もうバカ正直に全くのノープラン、完全にフリースタイルで2008年の「Red Bull BC One」に挑んだ。
結果は準優勝…優勝したダンサーを見ていると、さすがに1〜7くらいまでは決めているようなんですね(笑)。

なんだ…とじゃあ、「ちょっとだけ創っておこうかな」とか、そこからは試行錯誤の連続でした。その後、「Red Bull BC One」には10回くらい出場したんですが、それこそ、2016年に「Red Bull BC One」の舞台を引退する迄、毎回が試行錯誤でした。1回戦負けしたり、ジャッジとして参加したり、また決勝までいって負けたり…
ずっとどうすればいいか考えてきましたね。
その一方で、チームバトルでの最高峰「BATTLE OF THE YEAR」にも挑戦を続けてきました。
この大会はショーケースとバトルサイドの二部構成。

ショーで上位になったチームがバトルで戦うスタイルなんです。2009年には「ALL AREA」という幅広い世代の国内の実力者を集めたチームで挑んだのですが、「ベストショー」の獲得までは届いたんですが、優勝はできなかったんです。
そこで今度は自分で声をかけて国内の若手の猛者を集めて「THE FLOORRIORZ」というクルーを結成。
2012年から挑戦しはじめ、ようやく2015年に日本人として初優勝。
帰国後にすぐさま「THE FLOORRIORZ ACADEMY」という次世代を育成するスクールもスタートさせました。

2016年はアカデミーの生徒たちに僕らが世界で戦う姿を見せようという気持ちを持って挑み、連覇することができました。
でもね、僕たちはちょっと満足していなかったんです…
最近はチームバトルでも、ルーティーンといってチームであらかじめ作った「振り付け」を披露するカタチでバトルするのが主流になっていたんです。実際僕たちも2015年、2016年はルーティンで戦っていました。そうしないと勝ち上がれないという意識があったんです。
でもそれって1vs1でやりあうブレイクダンス本来の姿ではないなあというジレンマをずっと感じていたんですよ。

だからあえて三連覇をかけた2017年は、ノールーティーンでいこう、ソロの力だけでバトルしてねじ伏せるように勝ちにいくんだと、みんなで決めたんです。これで負ければ「ルーティンをやらないといけないシーン」が続くし、勝てば歴史を変えることができる。そんな気持ちで掴んだ優勝だけに、世界に何かメッセージを伝えることができたような気がするんです。おまけに自分たちで育てたアカデミーの1期生の子をメンバーに加えての優勝です。そりゃ感慨深かったですよ。

04次なる挑戦、そして第三の人生へ

2018年のユースオリンピックではブレイキンが競技として採用された。その際には、日本代表チームのブレイキンアンバサダーとしても活動したTAISUKE。2024年のパリオリンピックの正式種目への採用が有力視されるなど、ブレイクダンスにまつわる環境が大きく変わっていく中、TAISUKEは、何を思い、どこへ向かうのか。

たとえば「Red Bull BC One」で言うと僕がずっと出場し続けていましたから、「自分がどかないと後進の若い子たちがこの舞台に立てるチャンスが回ってこないんじゃないか」そう思ってあの舞台から引退を決意したんです。「THE FLOORRIORZ」での活動やアカデミーを創ったのも想いは共通していました。最近はもう自分のために踊るだけではなく、後進やサポートしてくれるみんな、シーン全体のために、という視点で動くようになってきているところはありますね。実際、ここ2年くらいは若手のために力を注いできて、いろんな子が海外に行くのも見届けてきました。たとえば「Red Bull BC One」が招待制に変わって、誰もが挑戦できる環境ではなくなっていたのが残念で、Red Bullに直接交渉して、優勝したらシード権がもらえる大会を創設して主催したり…。もうRed Bull BC One All Starsというチームにも10年所属しているので、仕切る側としての発言力を持ってきているところはありますからね。まだまだ他にもいろんなことに挑戦したいですね。実はまだあまり公言していないんですが、「TAISUKEがRed Bull BC Oneに復活するという」説をそろそろ流そうかな、と企んでいたんです。30歳になる節目の2020年くらいに復活すると(笑)。ブレイクダンスでは32歳がピークと言われているところはありますが、年齢なんてその人次第。自分ももう1回スタートしてみたいと思うんです。

Bonus Track

取材後、この記事を世に出すべく調整している間にもTAISUKEの前進は加速!世界レベルの大会のオーガナイズや距離をおいていたソロバトルへの復活など、放っておけないニュースがどんどん飛び込んできた。そこで急遽、追加取材を敢行。ボーナストラックとしてお届けしよう。

ちょうど前回APIAさんの取材の少し後なんですけど、おもしろい話がやってきたんです。日本で開催されているBMXやスケボーの世界大会「ARK LEAGUE」というのがあるのですが、今年からブレイキンも加えたいという話が出ていて「そのオーガナイズ、TAISUKEやらないか?」と…。元々主催の連中とは、同じストリートスポーツをやる同士、イベントで出会ったり、RED BULLアスリート同士だったりで付き合いはあったんです。開催までもう数ヶ月しか準備期間がないけど、やることにしたんです。この大会をソロバトルでの復帰戦にしようと心に決めて…ただ招待選手に声をかけたり、会場での照明のセッティングや演出を考えたり、ジャッジシステムやエントリー費を決めたり、スポンサーを探して自ら営業したり…準備でかなりの時間を持って行かれました。ハイ、まあまあ大変でした(笑)。自分の踊りよりもイベントとして成功させることが第一にありましたから。おまけに「この大会、初開催時はオーガナイザーが優勝してきたんだよね」とさらっと言われていたのも…何気にプレッシャーでしたね。だから準備の合間に時間を見つけて自分の練習も積む、そんな日々を重ねて当日を迎えました。結果は、チームでも個人でも優勝。決勝は屋外のステージだったんですが、その日は天気が不安定でどうなるかと運営として心配なところもあったんです。でも決勝のジャッジで「3−2!TAISUKE勝利!」と出てから、待っていてくれたように雨が落ち始めました。「TAISUKEは大会のオーガナイザーとしても、選手としても“持ってる”な」とみんなに言ってもらえました。さっそく世界中に「TASIUKE完全復活」の一報は広まったようで、世界中の仲間から「復活、おめでとう!」「やっと戻ってきたな!」など連絡が届いています。次は2019年10月に「Silverback open」というアメリカのソロバトルに挑む予定です。賞金のデカさでも有名な大会で、ギラギラしたやつらがみんな狙っているんですよ。次はそこに向けて調整していきます。チームでの活動予定もありますが、そうやって一つ一つシーンに存在感を示しながら進んだ先に、パリオリンピックが繋がっているように思うんです。

2018年のユースオリンピックではブレイキンが競技として採用された。

その際には、日本代表チームのブレイキンアンバサダーとしても活動したTAISUKE。2024年のパリオリンピックの正式種目への採用が有力視されるなど、ブレイクダンスにまつわる環境が大きく変わっていく中、TAISUKEは、何を思い、どこへ向かうのか。

たとえば「Red Bull BC One」で言うと僕がずっと出場し続けていましたから、「自分がどかないと後進の若い子たちがこの舞台に立てるチャンスが回ってこないんじゃないか」そう思ってあの舞台から引退を決意したんです。

「THE FLOORRIORZ」での活動やアカデミーを創ったのも想いは共通していました。最近はもう自分のために踊るだけではなく、後進やサポートしてくれるみんな、シーン全体のために、という視点で動くようになってきているところはありますね。実際、ここ2年くらいは若手のために力を注いできて、いろんな子が海外に行くのも見届けてきました。
たとえば「Red Bull BC One」が招待制に変わって、誰もが挑戦できる環境ではなくなっていたのが残念で、Red Bullに直接交渉して、優勝したらシード権がもらえる大会を創設して主催したり…。

もうRed Bull BC One All Starsというチームにも10年所属しているので、仕切る側としての発言力を持ってきているところはありますからね。まだまだ他にもいろんなことに挑戦したいですね。
実はまだあまり公言していないんですが、「TAISUKEがRed Bull BC Oneに復活するという」説をそろそろ流そうかな、と企んでいるんです。30歳になる節目の2020年くらいに復活すると(笑)。ブレイクダンスでは32歳がピークと言われているところはありますが、年齢なんてその人次第。自分ももう1回スタートしてみたいと思うんです。

Bonus Track

取材後、この記事を世に出すべく調整している間にもTAISUKEの前進は加速!世界レベルの大会のオーガナイズや距離をおいていたソロバトルへの復活など、放っておけないニュースがどんどん飛び込んできた。そこで急遽、追加取材を敢行。ボーナストラックとしてお届けしよう。

ちょうど前回APIAさんの取材の少し後なんですけど、おもしろい話がやってきたんです。日本で開催されているBMXやスケボーの世界大会「ARK LEAGUE」というのがあるのですが、

今年からブレイキンも加えたいという話が出ていて「そのオーガナイズ、TAISUKEやらないか?」と…。
元々主催の連中とは、同じストリートスポーツをやる同士、イベントで出会ったり、RED BULLアスリート同士だったりで付き合いはあったんです。開催までもう数ヶ月しか準備期間がないけど、やることにしたんです。
この大会をソロバトルでの復帰戦にしようと心に決めて…ただ招待選手に声をかけたり、会場での照明のセッティングや演出を考えたり、ジャッジシステムやエントリー費を決めたり、スポンサーを探して自ら営業したり…

準備でかなりの時間を持って行かれました。ハイ、まあまあ大変でした(笑)。自分の踊りよりもイベントとして成功させることが第一にありましたから。おまけに「この大会、初開催時はオーガナイザーが優勝してきたんだよね」とさらっと言われていたのも…何気にプレッシャーでしたね。だから準備の合間に時間を見つけて自分の練習も積む、そんな日々を重ねて当日を迎えました。
結果は、チームでも個人でも優勝。決勝は屋外のステージだったんですが、その日は天気が不安定でどうなるかと運営として心配なところもあったんです。

でも決勝のジャッジで「3−2!TAISUKE勝利!」と出てから、待っていてくれたように雨が落ち始めました。「TAISUKEは大会のオーガナイザーとしても、選手としても“持ってる”な」とみんなに言ってもらえました。
さっそく世界中に「TASIUKE完全復活」の一報は広まったようで、世界中の仲間から「復活、おめでとう!」「やっと戻ってきたな!」など連絡が届いています。次は2019年10月に「Silverback open」というアメリカのソロバトルに挑む予定です。賞金のデカさでも有名な大会で、ギラギラしたやつらがみんな狙っているんですよ。

次はそこに向けて調整していきます。チームでの活動予定もありますが、そうやって一つ一つシーンに存在感を示しながら進んだ先に、パリオリンピックが繋がっているように思うんです。

05世界のトップダンサー、釣りを語る

ものごころついた頃には竿をもって磯遊びしていたくらいですから、やっぱり釣りは僕にとって、いい息抜きになるんです。ルアーでの釣りを覚えたのは、中1の頃ですね。親戚の牡蠣の養殖の手伝いといいながら、磯に行っては、みんなが朝から夕方まで仕事をしているのにあわせて釣りをして、ご飯を食べてまた釣りをするみたいな感じでやっていたのが、今でも忘れられないんです。あれは、楽しかったなー。中2で陸上を始めてからも、時間があって行けるときには行っていました。それが東京に出てからは、忙しかったり、車も持っていなかったので、釣りからは少し遠ざかっていました。でも、東京のチームメイトが釣りをしていることを知って、車を買ったタイミングで「釣り具も買おうかな…」と思って…。APIAを知ったのは、2年くらい前ですね。友だちが使っていたんですよ。アジやメバルなどライトゲームが好きでLegacy’SC、BLUELINE、あとGRANDAGEもあります。ポイントとしては川崎とか横浜とか観音崎、横須賀あたりに行くことが多いですね。

釣りに行くと昔に戻れてリラックスできるような感覚があるんです。いろんなことも考えられますし、その時間ってスゴイ貴重なんですよね。「今日はちょっと練習したくないな…」っていうときには、風をみて「行こうかな!」って思う。船ではなくオカッパリで釣るのが好きです。釣りって「どのくらい飛んだ」「魚がこう来てこのへんにいる」など想像力を働かせてやるでしょ。それって発想力にも繋がるし、ダンスでこの技がこう繋がったらおもしろいんじゃないかとか考えるのにも通じると思うんです。そういえばダンスをしている人で釣りをしている人って結構多いんですよ。もちろん「あー空がキレイだな」と思ってぼんやりしたり、釣りそのものに集中しているときもあります。釣っている最中に急に竿を置いて、昔の記憶をたどりながら「テトラの間のこんなところに伊勢エビがいるんじゃないか」って探してみたり、「やっぱりここは、アワビがいるよねー」って没頭してみたり。小さい頃に遊んでいた感覚って、やっぱり覚えているもんなんですね。
ファッションやダンスと同じで、バス釣り、エサづり、シーバス、ライトゲームとジャンルがたくさんあります。上京するまでは、いわゆる「漁師の釣り」しか知らなかったんです。ルアーの釣りは用語からして全くわからなかったんです(笑)。上京してブレイクダンスと改めて向き合い直した時と、釣りも同じ感覚になってるところはありますね。釣りのもっと奥の部分が知りたい!っていう…なんだか、シクッたなあ、これはもうどんどんハマっていくところまで行ってしまうパターンだな、って自分でも思います。しかも釣りとなればハマれば、もう一生帰って来られないヤツでしょ(笑)。ダンスだったら朝5時半集合なんて聞くと、「なんで!?」ってなるのに、釣りだったら苦にならずすんなり起きる。せっかく時間作って、佐世保の親元に帰省しても時間があけば釣りにいってしまう。母親にも「あんた3日しか帰ってないのに、3日とも釣りにいってるやん!」ってたしなめられますね。釣りに行けるはずないときでも、帰省するとなれば釣り道具は持っていくんです。もしかしたら…って思うの、わかるでしょ?まあ、結局行けなくてショックを受けることになるんですけど。佐世保市の観光大使にもなって、長崎県と話をすることも多いんですが、宇久島っていうヒラスズキの釣り場もあるところでイベントをしてほしいみたいな依頼もあります。またこれは、釣るチャンスがあるかもって期待しちゃいますね(笑)。

APIAはカッコいいっていうイメージがありますよね。友だちが使っているのを知って、自分でも調べてみたんですが、映像を見てもカッコいい。他とはちょっとテイストが違いますよね。実際持っている人もカッコいいというイメージもあります。そういう格好良さと気持ちの部分の両輪をしっかり持っているというのは、ダンスへのこだわりと通じるところがあります。ただ釣れたらいい、という結果だけ目指すのは僕の中ではちょっと違うんですよね。やるなら、カッコよく釣りをしたい。たとえ釣れないときがあってもそれでいいと思えるようなものが、APIAにはありますね。モノにはメーカーなどでここのは合わないっていうのがあります。ダンサーで言う靴と服。僕の場合シューズはプーマ。あの人が履いているな、自分もアレがほしいなって思えるような雰囲気。そういう部分をAPIAは突いていると思います。僕もブレイクという戦いのカルチャーの中にいる人間です。足下をみられて、「キミが使っているのは…なんだ、それか…」みたいに思われるのは、正直イヤなんです。APIAは、持っていて恥ずかしくないプライドみたいな感覚になり始めているところがあります。あ…こんなことを言っていると下手にInstagramで写真もあげれないな(笑)。「え、竿はそれでリールはそれなの!?」と突っ込まれたりしちゃうじゃないですか。ともかくブレイクダンスと同じで、こだわりを持って自分の好きなものをやっているというスタンスで、この先じっくり釣りとも向き合っていきたい気持ちが僕の中に芽生えてきているんです。

ものごころついた頃には竿をもって磯遊びしていたくらいですから、やっぱり釣りは僕にとって、いい息抜きになるんです。

ルアーでの釣りを覚えたのは、中1の頃ですね。親戚の牡蠣の養殖の手伝いといいながら、磯に行っては、みんなが朝から夕方まで仕事をしているのにあわせて釣りをして、ご飯を食べてまた釣りをするみたいな感じでやっていたのが、今でも忘れられないんです。あれは、楽しかったなー。中2で陸上を始めてからも、時間があって行けるときには行っていました。それが東京に出てからは、忙しかったり、車も持っていなかったので、釣りからは少し遠ざかっていました。でも、東京のチームメイトが釣りをしていることを知って、車を買ったタイミングで「釣り具も買おうかな…」と思って…。

APIAを知ったのは、2年くらい前ですね。友だちが使っていたんですよ。アジやメバルなどライトゲームが好きでLegacy’SC、BLUELINE、あとGRANDAGEもあります。ポイントとしては川崎とか横浜とか観音崎、横須賀あたりに行くことが多いですね。
釣りに行くと昔に戻れてリラックスできるような感覚があるんです。いろんなことも考えられますし、その時間ってスゴイ貴重なんですよね。「今日はちょっと練習したくないな…」っていうときには、風をみて「行こうかな!」って思う。船ではなくオカッパリで釣るのが好きです。

釣りって「どのくらい飛んだ」「魚がこう来てこのへんにいる」など想像力を働かせてやるでしょ。それって発想力にも繋がるし、ダンスでこの技がこう繋がったらおもしろいんじゃないかとか考えるのにも通じると思うんです。そういえばダンスをしている人で釣りをしている人って結構多いんですよ。もちろん「あー空がキレイだな」と思ってぼんやりしたり、釣りそのものに集中しているときもあります。釣っている最中に急に竿を置いて、昔の記憶をたどりながら「テトラの間のこんなところに伊勢エビがいるんじゃないか」って探してみたり、「やっぱりここは、アワビがいるよねー」って没頭してみたり。

小さい頃に遊んでいた感覚って、やっぱり覚えているもんなんですね。 |ファッションやダンスと同じで、バス釣り、エサづり、シーバス、ライトゲームとジャンルがたくさんあります。上京するまでは、いわゆる「漁師の釣り」しか知らなかったんです。ルアーの釣りは用語からして全くわからなかったんです(笑)。上京してブレイクダンスと改めて向き合い直した時と、釣りも同じ感覚になってるところはありますね。釣りのもっと奥の部分が知りたい!っていう…なんだか、シクッたなあ、これはもうどんどんハマっていくところまで行ってしまうパターンだな、って自分でも思います。

しかも釣りとなればハマれば、もう一生帰って来られないヤツでしょ(笑)。ダンスだったら朝5時半集合なんて聞くと、「なんで!?」ってなるのに、釣りだったら苦にならずすんなり起きる。せっかく時間作って、佐世保の親元に帰省しても時間があけば釣りにいってしまう。母親にも「あんた3日しか帰ってないのに、3日とも釣りにいってるやん!」ってたしなめられますね。釣りに行けるはずないときでも、帰省するとなれば釣り道具は持っていくんです。もしかしたら…って思うの、わかるでしょ?まあ、結局行けなくてショックを受けることになるんですけど。

佐世保市の観光大使にもなって、長崎県と話をすることも多いんですが、宇久島っていうヒラスズキの釣り場もあるところでイベントをしてほしいみたいな依頼もあります。
またこれは、釣るチャンスがあるかもって期待しちゃいますね(笑)。

APIAはカッコいいっていうイメージがありますよね。友だちが使っているのを知って、自分でも調べてみたんですが、映像を見てもカッコいい。他とはちょっとテイストが違いますよね。
実際持っている人もカッコいいというイメージもあります。

そういう格好良さと気持ちの部分の両輪をしっかり持っているというのは、ダンスへのこだわりと通じるところがあります。ただ釣れたらいい、という結果だけ目指すのは僕の中ではちょっと違うんですよね。やるなら、カッコよく釣りをしたい。たとえ釣れないときがあってもそれでいいと思えるようなものが、APIAにはありますね。
モノにはメーカーなどでここのは合わないっていうのがあります。ダンサーで言う靴と服。僕の場合シューズはプーマ。あの人が履いているな、自分もアレがほしいなって思えるような雰囲気。

そういう部分をAPIAは突いていると思います。
「僕もブレイクという戦いのカルチャーの中にいる人間です。足下をみられて、「キミが使っているのは…なんだ、それか…」みたいに思われるのは、正直イヤなんです。APIAは、持っていて恥ずかしくないプライドみたいな感覚になり始めているところがあります。
あ…こんなことを言っていると下手にInstagramで写真もあげれないな(笑)。
え、竿はそれでリールはそれなの!?」と突っ込まれたりしちゃうじゃないですか。

ともかくブレイクダンスと同じで、こだわりを持って自分の好きなものをやっているというスタンスで、この先じっくり釣りとも向き合っていきたい気持ちが僕の中に芽生えてきているんです。

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